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2009 / 3 / 1

新聞はひたすら「記録」に邁進せよ

by ayumu

ぼくは今の日本の新聞というものの必要性を感じていませんが、しかし新聞そのものが不要だと思っているわけではありません。
むしろ絶対に必要だと考えています。
ぼくらがよりよく生きていくためには、いつも考え、いつも判断することが求められます。
考えたり判断するには、そのための材料が十分に存在しなければなりません。
考えたり判断したりするための材料を提供するもの、それが新聞の役割です。

そしてそれができることが新聞の価値です。
これはジャーナリズムや報道全体に言えることではありますが、こうした活動を組織として行うことが必要で、そうなると今の社会のしくみの中では、新聞社というものが、そこにもっとも近い位置にいることは確かです。

記者の役割は、「新」しく「聞」く情報を得ることです。すでに存在するのと同じ情報ではなく、これまでになかった新しい情報を。
その情報を記者が書く。それが記事。
そしてその記事をオープンな情報として保存する。それが記録。

世の中の事実や事象を記録していくこと。
それが新聞の、これからも変わらない、そしてほかのものには代え難い、役割です。

新聞というと、あの大きな紙に印刷されたものを、そしてそれが手から手へ届けられることをつい想起してしまい、それこそが重要であるかのように錯覚します。

でも本質的には、新聞は記録し続けてくれさえすればいいのです。
記録するだけでいい。

この時代、もはやそのあとの「伝える」という工程、一定の長さの文に納め、一定の面積に納め、紙に定着させて大量に複製し、それを津々浦々の玄関まで届けるといった工程は、ネットによって代替されたり、不要になったりします。

記録のデータ化のあと、ひょっとしたらそれを編集するという作業も新聞の役割として残るかもしれませんが、一方でその作業は機械(コンピュータのプログラム)、ほかの企業、そして多数の個人によっても行われることにもなるでしょうから、新聞はその役割においてはワンオブゼムでしかありません。

でも、記録をデータ化し、公開することは、記者を束ねる組織にしかできません。
新聞は、ひたすら記録すべきです。

ただし。
それ以外のことはしなくていい、という思い切りと、
「オープンな情報として保存する」ということの意味への理解。
これは今の日本の新聞社には恐ろしくハードルが高いことで、果たしてできるかどうか。

できなければ無くなってしまうので、なんとしてでもやってほしい、やらなければならない、のですが。

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