25歳、誕生日おめでとう。
あやうく忘れるところだった。
Macintosh、25歳の誕生日おめでとう。
ぼくは、ほんとうにたくさんのことをMacintoshから教えてもらいました。
その中でも一番大切なのはたぶん、「理想を追い求めることの価値」です。
理想を追い求めることを空想ではなく、現実のこととしてとらえ、現状をどうやったら理想に近づけることができるのか、ということを事実の積み重ねによって見事に体現してきてくれたのが、Macです。
Altoも、Windowsも、ある意味で世界を変えたコンピュータシステムと言えるでしょう。
でも理想と現実を目の前で地道につきあわせながら、本当の意味で世界を変えたのは、Macintoshだと思います。
このコンピューターが25年たった今も存在し、ぼくの目の前にあることに感謝します。
これを産み出してくれた人たち、本当にありがとう。ことにスティーブ・ジョブズ。ありがとう。早く病気を治して復帰してほしい。
ちょっと前のぼくには、こういう書き方をすることがためらわれたものでした。信者と思われたくない。
でも今のぼくにははっきり言えます。ぼくはアップル信者でもMacintosh信者でも、ましてジョブズ信者でもありません。
そうではなく、ぼくは彼らと、彼らが作り出してきたものから、たくさんのことを学んだのです。教授についた学生が様々なことを学ぶように、ぼくはMacを作った人々の弟子なのです。批判をすることもありますが、教わったことがそれで無になることは決してありません。
昨年秋の勝利演説で、オバマはこういう言葉を使いました。
We have come so far.
われわれは、ここまできた。
そういえば、アップルの設立十周年記念誌のタイトルは「So Far」でした。
オバマはこう続けます。
But there is so much more to do.
しかし、まだやることはたくさんある。
そう、まだやらなければいけないことはたくさんある。
Macintoshから学んだことを活かさなければいけないことは無数にあります。
その一助にならんと、日々思い、活動するばかりです。
無人というより、無惨
イスラエルからの攻撃に使われている、無人飛行機。それがどういうものなのか、いくつかのサイトであらためて知ったら、恐ろしくなりました。
攻撃目標をあらかじめ設定しておいて、あとは勝手に飛んでいって爆弾落としたりミサイルを発射する、とか、偵察用にあらかじめ決めた空路を回ってビデオか写真を撮って帰ってくる、とか、そんなものをなんとなく想像していたのです。
でも、そんなもんじゃなかった。
リアルタイムでカメラからの映像を見ながら操縦する、リモコンなんですね。しかもレーザーガイドのミサイルつき。
実際の戦闘機では見ることができない攻撃の瞬間をも、無人飛行機でなら映像で見ることができるそうです。
しかも、地上にいる人の性別まで判別できるくらいの鮮明な解像度だとのこと。つまり、ミサイルをぶっぱなしたあと、建物がふっとんだり、人がふっとんだりするところが「ちゃんと」見られる、というわけです。
ガザではこの無人攻撃機が大活躍しているみたいなので、つまりは1000人を超える犠牲の中には、こうして遠隔地から殺された人もたくさんいるということです。
これが恐ろしいのは、攻撃に携わっている人が戦地にいない、ということ。地球の裏側からでもいいそうです。
ミサイルで子どもをバラバラにして、その映像をリアルタイムで見たあと、席をたった操縦士は勤務時間を終え、自分のおうちに帰って、30分前にミサイルを発射したその手で、かわいい自分の子どもを抱き上げたりしているかもしれないわけです。
「パパ、今日はどんなお仕事してきたの〜?」
なんて子どもに聞かれちゃったりしてるかもしれないわけです。
殺される側にとってはもちろんですが、殺す側にとってもまた、なんと酷い戦争なんだろうか。
ゆるさない、のではなく
ゆるせない、とか、ゆるさない、といった言葉が使われることがあります。とても激しい、強い感情の発露として使われることも少なくありません。でも、この言葉は、ぼくにはどうしても、どこかむなしく響いてしまいます。
特に、何かの運動の看板や垂れ幕や、デモのシュプレヒコールに使われているのを見聞きするとき、そうした投げかけをする側の思いを強く感じれば感じるほど、それに反して、むなしさや、そこからくるいらだちを覚えずにはいられません。
「ゆるさないゾ〜!」と叫んでも、叫ばれた側は痛くも痒くもないのではないか。そんなふうについ思ってしまうのです。
ゆるせない、だから○○する! その○○こそが大切で、それによって痛かったり、せめて痒かったりする○○ができなければならないわけです。
許さない、なんて言葉は、それを発している者共とともに、ヤツラにとっては存在しないのも同じなんです。
ヤツラって誰だ?
たくさんいるよね。
くそっ。
見えないものを見る
テレビでは、驚くほどたくさんの、意味のない番組が流されています。
不況でありながら、というよりは、不況であるがゆえに、テレビ局もお金をかけない安易な番組を量産するのでしょう。
いまあたたかで静かな部屋でぼくがこうしてブログを書いているこのとき。
年末に行った上野の公園の片隅に並んでいた、いくつかの小さなブルーテントに棲んでいる人たち。
東京駅の地下駅の長く広い通路に、点々と横たわっていた多くの人たち。
あの人たちは皆あの場所で年を越し、今も寒さに耐えているのでしょうか。
クリスマス直後から始まった、イスラエルによる空爆。
400人を超す死亡。何十人もの子どもも殺されてしまったことが、戦火の元にいる人から、発電機を使ってメールで伝えられています。
子どもを亡くした親たちは、F16の爆音と、すぐそばで起きるミサイルの破壊音に身を縮めながら、絶望的な悲嘆にくれているのではないでしょうか。
テレビや新聞では見えないものがたくさんある。
知り、感じ、想像する。
オルタナティブなメディアで知る。リアルで感じる。異なる立場を想像する。
そのことをもっと、意識的にしていかなきゃと思う、年の始めです。
レオナール・フジタ
上野で『レオナール・フジタ展』を見る。
一昨年の『藤田嗣治展』を見逃してしまっていたので、今度こそと。
藤田嗣治の描く絵に初めて接したのは、中学か高校の頃、エコールド・パリの作家の作品を集めた展覧会ででした。以来、かなり好きな部類に入る作家なのですが、まとまって作品を見ることのできる機会は多くないため、とても楽しみでした。
芸術の真価は作品そのものにあると思うので、ぼくの場合事前に情報をあまり入れません。というより、努力して入れないようにしているかも。作品そのものに、作品だけに、できるだけ直に接したいのです。これは絵でも映画でも小説でも同じ。
もちろん作家の生き方や考え方に興味を持ち、それで調べたり読んだりすることはよくあります。でもそのようにして得る生き方や考え方がすばらしいことと、作品がすばらしいことはまた別。尊敬する生き方をする人がすばらしい作品を生み出すとは限らないし、その逆もあります。
だから作品をじっくり見る前に、評価の雑音となってしまうような作家の情報を入れることはあまりしないし、ましてや作品そのものの情報を入れることはほとんどしません。
そんなわけで、今回も「なんで『藤田嗣治展』じゃなくて『レオナール・フジタ』なんだろうなーという基本的な部分で無知なまま都美術館に向かったのでした。
結果、藤田嗣治からレオナール・フジタに至る作品群によって、彼の生涯を端的に、しかし奥深く見せてくれるよい展覧会でした。
何十年もカンバスが巻かれたまま眠っていた、本邦初公開の大作には圧倒されました。
終の棲家は、今は歴史的記念物として保存されているそう。いつか行ってみたい。
どんな場所なのか、Google Mapで検索すると、田園地帯、森の端に位置しているよう。たぶんこの航空写真[google]の中央にある小さなおうちです。
そして最期に精力を注いで建てた「平和の歳暮礼拝堂」はここ[google]。