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Posts from the ‘編集・書籍・雑誌・出版’ Category

6
2月

新聞紙というユウウツ

今の新聞が嫌いな理由はたくさんあります。

ひとつはゴミ。

読んだあとの新聞はゴミになります。何かを包むとか、ときどき役に立ちますが、まあ大半は捨てることになります。

その量が半端でないですよね。毎月、重ねて40cmぐらいの束になる。

家電やコンピューターは製造者が責任をもって回収をするということが義務化されてるんだから、新聞紙もそうしたらいいと思ったり。

うちは牛乳の宅配も頼んでいます。スーパーで買うより高めだけれど、紙パックというゴミが出ず、ビンがリユースされるところも、気に入っている理由のひとつ。届けにきた人が、回収もしてくれる。

とはいえ、今、カツカツでやっている販売店にそれをやってくれというのは酷です。実際にやるのは販売店になるでしょうが、新聞社が自ら負担をして、そのようなしくみをつくるべきです。

もうほんとにユウウツなんだよね、回収に出すために新聞紙をまとめる作業って。普通のゴミをだす作業もめんどくさいけれど、新聞紙をまとめる作業をやっているときほどユウウツにはならない。

たぶん、作業そのものではなく、この時代にあって、完全にフローな情報が物理的な形で届けられることに苛だつのだと思います。

まあそう考えると、回収のしくみとか作るより、やっぱり紙で宅配するというしくみそのものを変える、というかやめる、ということでいいんじゃないでしょうかね。紙でほしいという人もそりゃいるでしょうが、あと10年もたてば、そういう人のほうがずっと少数派になるんでは。まったくなくす必要はないが、今のようにほとんどが紙で宅配ってのは、もうないでしょう。

道具としての新聞紙は、百円ショップで同じ大きさの新聞用紙を一束100枚100円とか、そんなんで売ってくれればいいです。

21
1月

無料冊子にも同人誌にもISBNを

個人として会友になっている「版元ドットコム」のメーリングリストで、無料の目録にISBNを付けることについて話題になっています。版元の方々のいろいろな意見があって、とても興味深いです。

ぼくはISBNというコードの存在を、かなり評価しています。実にありがたいものと思っています。

それはISBNが、特定の情報(のパッケージ)をユニークに識別することが可能な統一的かつ標準的なコードである、という点に尽きます。

ウェブサイトやそれに含まれるページがURIを持っていて、ユニークに情報を特定できるように、書籍もISBNによってユニークに情報を特定できます(ISBNもURIとして記述できます)。

そしてウェブよりISBNが良い点——というよりは「今ISBNがつけられているメディアの良い点」か——は、情報が固定されていること、そのため情報パッケージの中に含まれる特定の部分的な情報を厳密に識別可能なこと、です。

ウェブは公開後もいくらでも改変でき、またページごと、ドメインごと無くなることもよくありますが、一度出版された書籍は、仮に物理的にすべて失われようとも「無かったことと同じ」になることはありません。

そして書籍の中の特定の一文一語は、ページ数、行数、文字数などで特定できます(通常、版が変わってもISBNは変わらないので、厳密には場所が変わったりなくなったりして特定できない場合もたまにありますが)。

ウェブでは文字の大きさも一行の文字数も固定的ではありませんし、文字数をカウントすることは可能であっても、どのようにカウントするのかの決まりや定義、しくみがないので実質的に意味がありません。そのためページの中の一部の情報を指し示す方法がありません。

情報をデジタルとネットワークで有効に使うため、つまりは人間が情報を存分に駆使するためには、あらゆる情報にすべからくユニークなコードがつくべき、と思います。

既存の体系では、URIがそれをもっとも近く体現しているのですが、それでも、情報のありかを指し示すだけで、情報そのものの特定の位置を指し示すのには充分ではありません。ですがISBNのついているメディアは、今すでにそれができます。

そういう意味で、ぼくは当然、目録など無料の頒布物にも、ISBNがついてしかるべき、と考えます。

ところが現状のISBNは、「情報をユニークに特定するコード」という側面よりも、「流通や販売の管理のためのコード」という側面が強く(そうでなければこれほど普及しなかったでしょうが)、それがゆえにISBNは単なる情報識別コードからはみだして、その情報がもっている「意味」をも識別するコードになってしまっているようです。

上記メーリングリストで初めて知りましたが、コミケではISBNがついている冊子を商業印刷物とみなして販売をさせていないとのこと。
情報を特定するコードという視点からは、同人誌にもぜひISBNつけてほしいところです(出版者記号をどうするのかなどの課題はあれ)。有料で販売していても同人誌は「商業印刷物」ではなく、ISBNもつかない……理由はわかりますが、すっきりしません。

まあ、ISBNによって完全にユニークに識別できるかというとあやしいところもありますし(将来のことも含め)、用途が違うよということなのかもしれませんが、とはいえこれから別の体系を作って普及させるなんてほとんど不可能ですから、主たる目的は流通などのためにせよ、情報識別子としてもちゃんと利用できるように運用してもらいたいと、一情報ユーザーとしては思うのです。

19
11月

雑誌の顔、表紙の顔

エビちゃん「卒業」記念のCanCam表紙にはちょっと驚かされた。表紙が二枚あって、一枚めをめくった二枚目が通常の表紙。二枚ともエビちゃんの写真だが、一枚めは、記事名の紹介などがまったくない、エビちゃんを完全にフィーチャーした表紙です。ひとりの女性の存在だけで雑誌が売れるということをあれほど象徴している表紙はないでしょう。
とはいえ、ご卒業後の進路がAneCanというのはどうなのかと思わないでもない。小学館としては、こんな人を逃してなるものかというところでしょうが、もうすこし路線を変えてみてもよかったのではないかと……まあぼくが言ったところでどうにもなるものでもありませんし、それでいいかというと、何の根拠もないのですが。

さてここまでは前ふりで、これからが書きたかったこと。
同じようにひとりの人を表紙に載せるのでも、まったく違う路線、違う目的で、こちらは別の意味ですごい。
そしてすばらしい。
数少ないリベラルな雑誌の中でおそらく最大部数を誇る(そして一般的な認識もジャンル的にもリベラル雑誌ではない)この雑誌、『通販生活』のこの表紙はどうだ。
ただ彼を表紙にした雑誌も、ぼくは見た覚えがないけれど、ましてや「あなたはわたしたちの誇りです」とこれほど大きな文字で高らかにうたった雑誌はほかになかろう。
そして雑誌には、1ページも伊藤さんに関する記事はないのです。表紙がすべて。

わずか180円の、「モノを売るための」雑誌なのに、この雑誌はそれだからこそ、ほかの雑誌には見られない生真面目さで、私たちの生活と実際にはつながっているあらゆる出来事に眼を配ることを忘れない。忘れてはいけない、と自らに言い聞かせるように、地道に、様々な現象をとりあげ、様々な立場の意見をとりあげる。
立ち位置、表現のしかた、内容、そして商売の方法、あらゆる側面で興味のつきない雑誌であり企業です。

本文では、尊敬してやまない落合さんの対談連載、今回は姜さんがお相手。ビルマ軍事政権に抗議するTシャツを売るいとうせいこうの対談や、新連載「死刑」を考える、の保坂さんのインタビュー、「六ヶ所村再処理工場は動かすべきかやめるべきか」、糸井さんの連載最終回……今号はとくに読み出があります。こういう記事だけならべるとまるで『週刊金曜日』のように見えるけど、今号の主たるトーンは「寒さに備えるものたち」って感じで、あんか、湯たんぽ、腹巻き、などなど、あったかい誌面です。

13
11月

タッチタイプなわけ

前のポメラのエントリのizmrkさんコメントに、さらに返事しようと思って書いてたら長くなったので、改めて別エントリにします。

タッチタイプ(キーボードを見ないでタイプする)の必要性は、授業でもいつも強調します。見ながら打つのと、見ないで打つのでは世界がまったく異なる。コンピュータを道具として使う意味は、正確性と効率性にありますが、この両者においてタッチタイプは必須のものです。

で、ぼく自身がタッチタイプを必要としているのは、頭の回転に追いつくように、ではなく、考えたそばから忘れていくのを防ぐ(まあ防ぐことはできないんだが、忘れてもいいようにする)ためです。頭いいからではなく、頭悪いから、であるのです。手書きだと、書いてるそばから忘れるんだもの。メモしなければならないことが三つあったのに最後のひとつが思い出せない、とかしょっちゅう。
頭の回転はちっとも速くないので、まあカナ入力でもなんとか追いついているようです。
講演やインタビューを記録するときなど、しゃべる速度で打つ必要がある場合はスピードが苦しいので、そういうときは親指シフトだったらなあと思うことはあるのだけど。

欧文、和文と覚えた経験から、親指シフトも練習すれば使えることはわかっているつもり。そのうえ、親指シフトが最善の方法であることも知っているのに、あえて覚えようとしていないのは、コメントしたようにせっかく覚えてもその環境がない場合が少なくなくてイライラするだろう、というのことのほかにも理由がある。

身体が覚える操作というものは、とりあえず統一しておくほうが余計なことを考えずにすむので楽、という理由です。このことはけっこう重要です。指が覚えることなので、意識せずにいつも使えるほうがよいのでね。
ウィンカー出そうとしてワイパー動かしてしまうときの苛立ちとかガッカリ、そういう思いをしないようにするには、右ハンドルに慣れてるのなら外車でも見栄張らずに右ハンドルにしとくほうがよい、というようなことです。
なので、そうしたことの、まあ、トレードオフですね。

それでも、まだこれからでも覚える可能性と覚えたい意欲があるのは、片手入力。手元を見ずに片手ですばやい入力ができるタッチタイプの方法と、主な機器(特にモバイルデバイス)に接続できる入力装置が生まれたら、ぜひ覚えたい。電車の中で立ってポケットに手をつっこんだまま入力ができる、というモノがほしいわけです。
実はケータイのテンキー入力では、入力だけなら見ないでも打つことが可能ですが、遅くてまだるっこしいのが難点。

8
10月

「しかねる」という慇懃無礼

日頃からとても気になっている言葉のひとつ。

「〜いたしかねます」「〜できかねます」

最近とみによく聞くようになった気がします。

たいてい、客の注文などに応じられないときに使われるけれど、ていねいな言葉のようで実に失礼な印象をぼくはうける。
「うっさいなー。できねえんだよ、そんなこと!」みたいに聞こえます。

使ってる方も、そうとられていいと思って使ってるんだろうか。
少なくとも応対マニュアルには載せるべきではない言葉だよね。

「しかねる」という言葉には、それ以上の会話を断絶する響きがある。
「もうしわけありませんが、できません」と答えたら「何故⁈」と問われるかもしれない。その問いをあらかじめ封じたい意思がそこにはある。回答を拒否する意図がある。

意見を聞くつもりも答えるつもりもさらさらない。議論などまっぴら御免。
あるいは、やる気がない。こちらの言うことなどどうでもいい、という表明。

じつに嫌で不愉快。