政治・社会
逆転無罪判決
4月 17th
最高裁が痴漢事件で逆転無罪判決を出しました。
こうした事件では、でもやったんじゃないの?みたいな発言がよく聞かれますが、問題はやっているかやっていないかではない、ということを銘記しなければなりません。
繊維鑑定などの証拠が何もないにもかかわらず、被害者の証言のみで、一審・二審は有罪になっていたのです。
「被害者がウソをつくはずがない」といった非合理的な解釈によって、証言だけが有罪の根拠となってしまうことに、またそのような判決を出す裁判所があるということに、戦慄しなければなりません。
捜査、起訴、裁判の正当性や公正性の問題であり、国や社会のあり方の根幹を問う課題として注目しなければなりません。
今回は幸いにして無罪判決が出ましたが、痴漢に限らず、やっていないのだから、やったという証拠などあるわけなく、有罪になるはずがない、と思い司法を信じながら裏切られ、どれほど多くの人が刑に服さなければならない絶望を味わってきた(そして今も味わっている)ことでしょうか。
もうひとつ、このニュースで気になったのは、いくつかの報道機関が、無罪判決を受けた人を匿名にしていたことです。
無罪だから匿名にしたのでしょうか。
今回匿名にしている報道機関が、有罪判決のときにも匿名にしていたのかどうか、検索してみたけれど過去記事はことごとくウェブでは見ることができないので、まだ確認できていません。
しかしもし、有罪は顕名、無罪は匿名というルールで記載しているとすると、このような逆転無罪判決の際に、傷つけられた名誉の回復ができないことになります。
ずっと通して匿名にしていたというのなら、いいのですが……でも多くの報道機関は、そうしてはいないように思います。
微妙な電波
3月 11th
携帯受信アップ効果なし 吉本興業子会社などに排除命令
「携帯電話の電池パック内に入れるだけで、受信状況が向上し、電池が長持ちする」などの宣伝文句で売られていた銅板シートが、実際は表示の効果に全く根拠がなかったとして、公正取引委員会は9日、吉本興業子会社の吉本倶楽部(大阪)など製造販売の4社に対し、景品表示法違反(優良誤認)で排除命令を出した。
via asahi.com(朝日新聞社)2009年3月10日0時1分
大型電器店のケータイ売り場でよく見かけましたけど、そのたびに、どうしてこれに効果があると思うのか不思議でした。しっかし45万個も売れたのか。
今回はちゃんと公取委が命令出したけど(とはいえひととおり稼いだあとで、おそすぎる気もしますが)、買う方も買う方。
やっぱり学校でもうすこしきちんと「基礎的な科学的知識」と、それを元にした「論理的思考」や「懐疑的精神」を身に付けるようにしないと。
でもそういうものを一般市民に身につけてほしくないひとが世の中牛耳ってるってことなんですよね。
政治の世界のサギまがい(というよりサギそのもの)の活動など(郵政民営化とか!)に比べたら、こんな数千円の商品の害なんてかわいいもんです。
吉本倶楽部の言い分がいいや。「再発防止に努めたい」だって。これはやっぱり笑いをとってる……んですよね?
新聞はひたすら「記録」に邁進せよ
3月 1st
ぼくは今の日本の新聞というものの必要性を感じていませんが、しかし新聞そのものが不要だと思っているわけではありません。
むしろ絶対に必要だと考えています。
ぼくらがよりよく生きていくためには、いつも考え、いつも判断することが求められます。
考えたり判断するには、そのための材料が十分に存在しなければなりません。
考えたり判断したりするための材料を提供するもの、それが新聞の役割です。
そしてそれができることが新聞の価値です。
これはジャーナリズムや報道全体に言えることではありますが、こうした活動を組織として行うことが必要で、そうなると今の社会のしくみの中では、新聞社というものが、そこにもっとも近い位置にいることは確かです。
記者の役割は、「新」しく「聞」く情報を得ることです。すでに存在するのと同じ情報ではなく、これまでになかった新しい情報を。
その情報を記者が書く。それが記事。
そしてその記事をオープンな情報として保存する。それが記録。
世の中の事実や事象を記録していくこと。
それが新聞の、これからも変わらない、そしてほかのものには代え難い、役割です。
新聞というと、あの大きな紙に印刷されたものを、そしてそれが手から手へ届けられることをつい想起してしまい、それこそが重要であるかのように錯覚します。
でも本質的には、新聞は記録し続けてくれさえすればいいのです。
記録するだけでいい。
この時代、もはやそのあとの「伝える」という工程、一定の長さの文に納め、一定の面積に納め、紙に定着させて大量に複製し、それを津々浦々の玄関まで届けるといった工程は、ネットによって代替されたり、不要になったりします。
記録のデータ化のあと、ひょっとしたらそれを編集するという作業も新聞の役割として残るかもしれませんが、一方でその作業は機械(コンピュータのプログラム)、ほかの企業、そして多数の個人によっても行われることにもなるでしょうから、新聞はその役割においてはワンオブゼムでしかありません。
でも、機械や他者がそれをできるように、記録をデータ化し、公開することは、記者を束ねる組織にしかできません。
新聞は、ひたすら記録すべきです。
ただし。
それ以外のことはしなくていい、という思い切りと、
「オープンな情報として保存する」ということの意味への理解。
これは今の日本の新聞社には恐ろしくハードルが高いことで、果たしてできるかどうか。
できなければ無くなってしまうので、なんとしてでもやってほしい、やらなければならない、のですが。
