『2001年』を映画館で観る至福
3月にクラーク氏が亡くなられたとき、前のブログで
どこかの映画館が、この機会にまた『2001年』を上映してくれるだろうか。
できる限り大きなスクリーンで、やってくれないだろうか。
と書いていたのですが、別の寂しい理由により、望みがかないました。
新宿コマが今年いっぱいで閉館しますが、それに隣り合うビルに入っている映画館「新宿プラザ」もこのたび閉館。
そのメモリアル上映として今日、『2001年宇宙の旅』をやってくれました。
1000席を超えるような大きな映画館のスクリーンで『2001年』を見ることは、もう二度とできないかもしれない。
そんな思いで、わくわくしながら、朝一番の10時の回に、見に行ってきました。
作品について書くと長くなるのでここでは書きませんが、いややはり、ものすごい映画。こんなとてつもない作品、もはや作れないんじゃなかろうか。
これはほんとうに、大きなスクリーンで見ないとだめです。
最後の機会に、上映してくれた新宿プラザに感謝です。
空間が広々とした、いい映画館でした。こういう館が無くなるのはとても残念。
りえノラ
今月初めに見ていたのに、書きそびれていました……。
Bunkamuraで、宮沢りえ主演『人形の家』。
岩波文庫で『人形の家』を読んだのは中学のときか高校だったか……いずれにせよ、当時のぼくはそれなりに影響を受けた作品でした。
なんとなく肌で感じていた、おそらくは家父長制を基盤とする社会の空気にいらだちを感じていた頃だったので、勇気づけられた、という面があったかもしれない。既存の価値観に対する異議申し立て、していいんだ、という。
そして、ノラのように自立した精神を持つ女性、精神を目覚めさせた人の格好良さ。ああ、こういうのがいいよなやっぱり、と思った覚えがあります。フェミニズムというものの、言わば生きる姿勢というものを初めて作品の中に知った経験でもありました。
同時に、そういう人が持つ孤独というものの片鱗も感じていたような。
ただそれ以来、たぶん一度も読んでいなかったので、それほどちゃんと覚えておらず、今回初めて劇でこれを観る機会を得、ストーリーからしてなかなか楽しめました。
宮沢りえは、ぼくの抱いていたノラとは少し違うイメージ(これは観る前から予測していましたけど)ながら、前半の「かわいさを演じる」ノラと、ラストで自立を決意するノラ、両方にとてもよく合っていて、なかなか迫力がありました。まあ、中高生が抱く、子どもをもっている女性のイメージと、今の年齢になったぼくが抱くイメージはそもそも違うので、作品で描かれているノラのイメージと違うということではありません。むしろ逆かも。
若い頃の彼女には、特別にあまり興味がなかったけれど、年齢を重ねるごとに、魅力が増している気がします。若いうちに、ずいぶんいろいろな経験をしたことも「きれいな模様になって出て」きた、ということでしょう。
『北の国から』の彼女の役と演技がとても心に残っているのですが、今回のノラも、同じように心に残りそう。
席がやや後ろのほうだったので、一番前で見たかったな。
まさに魔法の映像。『パコと魔法の絵本』
びっくりした。
それなりに期待してはいたものの、これほどとは。
スキのない脚本が、すばらしい美術を舞台に、役者たちの大胆な演技によってまとめられて、見事な映画に結実。
笑わらせれたり、泣かされたり……というより、「笑いながら泣く」ということをさせられてしまいました。
クライマックスの、現実と劇と絵本の世界が交錯する映像の華々しい展開、そしてさらには、それもまた語られている過去の話であるという四重構造。
素っ頓狂な登場人物たち。現実離れしているようにみえるそのことこそが、それぞれの人生の背景を物語る魅力。
その、舞台で培われた見事な脚本に加えて、リアル映像とCGのわくわくするような交錯。
いやほんとうに面白かった。これこそ映画。こういうの大好きです。
おくればせながら、ポニョ。
みた直後の感想は、宮崎駿の想像力は果てどもないな、というもので、豊かな想像力で生み出された映像の楽しさにひたっていました。
でも相棒と話しながらいろいろ考えてみると、どうも今までの宮崎作品とはずいぶん違うよな、ということに。
世界観の構築がうまくできていない、それぞれの人物が(他作品に登場する、きらめくような人たちに比べると)あまり魅力的でないし人格がよくわからない、というのが特にひっかかります。宮崎駿が作ったんじゃないんじゃないかとか、よほど何か激しく横やりが入って好きなように作れなかったんじゃないかとまで思えたりして。
人物像、としては例えばフジモトさん。今ひとつ食い足りない。彼を主人公にした話が観たいなあ。
映画には出てきませんでしたが、設定によれば、かつてはあのノーチラス号の乗組員だったとか……それだけでも十分面白そうですが、どうやってポニョのお母さんと出会い、どうして結婚することになったのか、なんで離れて暮らしていて「あの人」なんて呼ぶのか……えらくおもしろそうな人生なのに、ポニョではそれが描写されていなくて。
それと、『ザ・デイ・アフター・トゥモロウ』や、『ディープインパクト』、『アルマゲドン』のような、世界的災厄をテーマにした映画を見たあとに感じることと同様の、いやーな感じも。映画のエンディングはなんだかハッピーになってるけど、でも地球規模でたいへんなことになってるんですよね? このあとどう考えても大規模な災害が起こり、もしくはすでにおこっていて、億の単位で人が死にますよね。ハッピーエンドどころか、めちゃくちゃ悲劇じゃないですか、という。
そもそもなぜこの話で地球規模の災厄(のように見えないけど実際はそうだしフジモトさんはそれを恐れていた)を起こす必要があったのかなあ。
それから、古代生物好きとしては、ああいった生き物たちが動いているのを観るのは楽しいけれど……。
フナムシいっぴき入り込んだら大変なことになる、というところに大量の海水と生き物が流れ込んだあのあとはどれほど大変なことになるのだろう、とか。デボン紀の水棲生物がなぜ復活して成体で泳いでいるのか、とか。生態系を壊すことを気にしているフジモトさんはどうしてカンブリア紀の大爆発に匹敵する生物の多様化をめざしていたんだろうか、とか。そう言えばそもそも今以上に多様化させることでどうして人間が壊した環境を戻すことができるんだろう。
こういうこと言うと、深く考えないで楽しむ映画だよ、というような反論されることもありますが、ならば「何かあるんではないか」と考えさせるような要素を排除すべきであって、楽しませることに失敗してるわけですよね。
知らなくても楽しめて、知っていればもっと楽しめる。考えなくても楽しめて、考えるともっと楽しめる。
少なくとも宮崎駿の作品はそういう魅力にあふれていたはずなんだけれど。
だって彼は、知っているし、考えている人なんだもの。
知識や思考をもとにした、豊かな想像力。
それが彼の魅力であるはず。
なんかへんだ。どうなってるんだろう。