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Posts from the ‘映画・演劇・テレビ’ Category

3
11月

映画『スティーブ・ジョブズ』

ぼくにとっては、この映画にでてきたエピソードのほとんどは知っていることだったけれど、何も知らない人が映画を見たら、ジョブズという人間にどういう感想を抱くのだろうか。彼の実際の魅力や、なぜアップルに返り咲けたのかというところはいまひとつ伝わらないんじゃないかなあという気がしないでもないのだけれど。

ぼくがMacの雑誌を作っていたのは、ちょうどジョブズがアップルにいない期間で、Macintoshの筐体のデザインがどんどん劣化していくのを絶望的な気持ちで眺めていたのだが、とはいえジョブズがいてくれれば……ともあまり思ってはいなかった。あの頃のジョブズは、「デザインの好きな毀誉褒貶の激しいビジネスマン」といった印象でしかなく、「ふたりのスティーブ」として並べたらもちろんウォズのほうが大好きだった。
返り咲いてから作った初代iMacのデザインはなるほどと思わせるものだったが、ぼくの好みではなかった。

ジョブズへの見方が変わってきたのは、たぶんiPodあたりからだろう。iTunesストアの実現、そしてiPhoneが決定的だった。
あれから彼はぼくのヒーローになった。……ぼくのヒーローになっていたのだ、と気づいたのは、彼の死を知ったそのときだったけれども。

今から思えば、Apple IIもMacintoshも、ぼくがドキドキしていたデザインの中に刻みこまれていた強い思いの多くはジョブズのものだったのだが、技術や、時代や、経営や、彼自身の問題から、それがまっすぐに世の中に提出されていなかったのだろう。
だから映画の中で、若きジョナサン・アイブ(役者の顔はそっくりというわけではなかったが、口調・発音は実にそっくりだ)がジョブズに、「あなたの考えを実現したくてここにいるんです」と言い、iMacのデザインについて熱く語るシーンには、目頭が熱くなった。

でももっと、彼とアップルのチームによるデザインの実現の過程を、ドラマとして観たかった。カリグラフィへの興味とフォントへのこだわりが結びついて描かれてなかったし(そのこだわりも、結果の成功のシーンがないので、なんだか部下をいじめる上司を描くためのネタになってしまっていた)、何よりPARCのエピソードがそっくり無いというのは残念すぎる。ビル・アトキンソンと、アンディ・ハーツフェルドのウィザードぶりも見せてほしかった。ジョブズがアトキンソンを外に連れ出して角丸四角形の重要さを説得するシーンも見たかった。それに、ただのダメなおじさんにしか描かれてないジェフ・ラスキンが悲しかった。

まあこんなふうに「ジョブズの何が描かれるのか」「どの時代のどんなことがどのように扱われるのか」ということにどうしても意識がいって観てしまっていたので、映画としてどうなのかという評価については、することができないでいる。

しかし、映画の1時間半で描かれるには短すぎる人生であったことはたしかだ。1年間の大河ドラマに十分なりうるだけの濃い人生。
あらためて、そんな人生をもった人と同時代を生き、その人のすることをリアルタイムに見、その結果を手にしてこられたのは幸せだったな、と思った。

もう2年がたつのか。

13
2月

五反田団『俺の宇宙船、』

おもしろいことを言おうとしてではなく、会話のなかでふと出てくるおかしな言葉というものがあります。
即つっこみを入れたくなるような、なんでそんなこと言うの?と思ってしまうような、そんな言葉。

日常の中では、いくらトボケた人を相手に話していても、発言すべてがそうなることはないわけですが、これは、そうした言葉を集めてきて1時間半におさめたような、そんな劇でした。

個々の登場人物の背負っている人生が一気に俯瞰できるような台詞を紡ぐ劇も好きですが、この舞台はそういうのとはまた違って、ひとりひとりが、こつこつと生きていることが感じられる、日常の魅力がありました。いろいろな不安をちょっぴり感じながら、それぞれのやり方でそれを押さえつけたり、逃がしたり。

台詞の間。手脚のうごき。遠近法と高低のある無機質な道具立てを変幻させて見立てる舞台。
いろいろなものが、ぼけているようで実に緻密につくられた脚本で編み上げられて、少しさみしげな暖かさを持つ物語となってふわりと着地。

五反田団『俺の宇宙船、』。誘ってくれた友人たちに感謝。

あ、そういえば、この脚本を書き、出演もしていた前田史郎さんが明日の21時からのドラマ [NHK.or.jp] を書いているということでした。見なければ。

25
1月

『Helvetica』

映画に登場したデザイナーの手による、Mac OS Xに搭載されているフォント。デザイナー名のところはもちろんHelvetica。

映画に登場したデザイナーの手による、Mac OS Xに搭載されているフォント。デザイナー名のところはもちろんHelvetica。

観たいと思っていた『Helvetica』(「Helvetica」という書体を巡るドキュメンタリー映画)を、会社のKさんがDVD買ったというので貸してもらって観ました。

いやー面白かったです。よく映画にしたなあと思いますけれど。フォントに興味ない人には、専門家という名のオタクたちがしゃべってるだけに見えるんじゃないでしょうか?

しかし、逆にグラフィックデザインに関わる人には必見です。借りて観たものの、これは僕も買います。Kさんには「絶対特典も見てください」と念を押されたのですが、ほんとに、映画には含まれていないインタビューで構成された特典映像95分も、本編に勝るとも劣らない内容です。なので映画館で見たという人も、特典映像のために、借りたり買ったりする価値十分にありです。

基本的に裏方であり「透明な存在」であるフォントデザイナーが動いてしゃべるとこ見れるなんて、なかなかありません。
Macのシステムにも入っているフォントのデザイナーも幾人かでてきます。ソシオメディアのドキュメントで使っているTahomaフォント産みの親のマシュー・カーターさん。それから、ぼくが大ファンであるヘルマン・ツァップさんを映像で見、その声を聞くことができたのは何ともしあわせです。

登場するのはフォントデザイナーばかりでなく、グラフィックデザイナーもたくさんでてきます。
たとえばニューヨークの地下鉄路線図を1972年に作ったマッシモ・ヴィネリさん。彼が、その路線図についての改良案を語るところがあり、なかなか興味深いです。で、あとでサイト調べたら昨年、その改良版を実際に作ってるんですね。men’s vogueに付録でついたらしい。古い方とくらべて見てみたい。一部はご本人のサイトで見ることができます。

ジョブズの話も少しでてきます。彼はMacを作っていたとき、Helveticaを使わせてほしい、とライノタイプ社に依頼に行ったとのこと。
フォントの価値、デザインの価値をきちんと知り、考え、それをちゃんとシステムに載っけようと、始めから考えていた。(でも都市の名前のフォントにしたのはなんでだったっけ? もいっぺんそのあたり確認しなきゃ……)
それに比べて……「マイクロソフトは悪党だ!」(エリック・シュピーカーマンが特典映像の中でそう言ってる)。
なんでHelveticaを使わず、それを真似してArielをわざわざ作るのか。世界一の企業が、買えないわけがあるまい、と。

そのほかにもいろんな話題が込められていて、これをきっかけにぼくも調べたり考えたりしたいこと満載でした。
たとえば手で描くこととコンピューターで描くことの違い。形を学ぶときへの影響。
目的にあわせて書体を変えること(結果として様々な書体を使うこと)と、ごく限られた書体を使ってあらゆるデザインを産み出すことの違い。

なかでもこの映画の中で、ぼくが強く共感をもった言葉(このままの台詞ではありませんが)。

・できる限りシンプルにすること
・存在が気がつかれないような、透明なデザインであること

18
1月

最近の視聴(伊東四朗一座、ライラ)

伊東四朗一座「喜劇 俺たちに品格はない」

wowowからの録画視聴。

熱海五郎一座も悪くなかったけど、伊東四朗がいるとやはり違う。彼も、彼を慕っている役者たちも、喜劇を作ることと喜劇を見せることが大好き、というのが伝わってくる。戸田恵子さん、年末の舞台が取れなかったので、お久しぶりに拝見。

ライラの冒険 黄金の羅針盤

wowowからの録画視聴。

いいじゃないすか、これ。わくわくする。登場人物も魅力的。映画館で見なかったことを後悔。

映画の続編製作は不景気を理由に無期限延期になってるようですが、ハリポタなんかよりよっぽどすばらしいこの話を映画にしなくてどうするのか。

とはいえ、映画の限られた時間の中では描ききれない内容の濃さと魅力を感じます。原作読まなければ。

14
1月

テレビはウソでいい、とテレビは思ってる

テレ朝の「仕込みブログ」 1か月もウソばらまいていた! [j-cast.com]

たぶん、テレビ局や制作会社の人たちは、このことをたいして悪いと思っていない。
テレビにとっては、ウソが常道なんですね。
これがすごく問題なのは、こうした意識がテレビにとって致命的な打撃になるということを、テレビ側が気づいていないこと、だと思います。

懐疑心を抱いたり、疑問を持つことを習慣的に行っている人は、これまでもテレビのウソをわかっていて、そういうものだと思っていたし、ひどい場合には批判もしてきました。
でもテレビを見る大半の人は、テレビが報じることには信頼性がある、と思ってきたでしょう。

それが前提でなければ、ネットは信用ならないということをテレビで伝えることに意味がない。

でもその前提は、まさにネットによって崩れはじめていて、ケータイからでも検索すればすぐに様々な情報が見つかります。確かに玉石混淆だけれど、玉石混淆であることも検索結果を見ればわかることなので、ネット上の何か一つのソースを信用するのは危険だ、ということにすぐに気がつきます。誰でも書けるのだから、いろんな知り合いに聞くのと同じで、正しい答えと間違った答えがある、という当たり前のことです。

なので様々な情報の中から、自分が正しいと思う情報を見つけ出すことを強いられます。
ここがテレビとはまったく違う。
テレビは、だから自分たちのほうが信用してもらえる、と思っている。

でもそうじゃない。玉石混淆だからこそ、信用できるのです。

ウソかどうかわからない一つの情報より、ウソもホントもいろいろある情報の方が信用できる。

たしかにそれが面倒だという人もいます。そういう人は自分が信頼できると思うソースのみからの情報で満足するでしょう。でもそういう人はどんどん少なくなるでしょう。

今回の発覚で、少なくともテレビもウソをつくということ、テレビの情報には玉だけでなく石もあることを自ら語ってしまいました。というか、石をわざわざ作ってしまったんですね。

こういうことが何度かあれば、テレビの報じることは玉よりもむしろ石のほうが多く、しかもその石はテレビによって作られたものだ、ということにいやでも気づいてしまいます。

かつてはそうやって石を作ってでも、それが面白ければよく、たいしたことでなければ多少騙すようなことがあっても許されました。というか気づかれることがあまりなかった。
でもそうではなくなっている状況があるのに、前と同じコトを繰り返すのは、テレビの信頼性を自ら下げる結果にしかならない……というより、ただでさえテレビはやばい状況なのに、どんどんそれを加速させるばかりです。
そのことに気づいていない、ということが、一番痛い。

制作者がたいして意識もせずに作ってしまったということもさることながら、「公に見られるところでしてしまった」ことが(ウソを作ったことではなく)反省点であると広報部が公式に発言していることに、まだ気づいていないという痛さが見えます。見えないところでやればウソでもよかった、と言っているわけで。

テレビは、もうだめだなあ、と思うことばかりですね。