ユーザー中心設計と民主主義
ヒューマンセンタードデザイン。ぼくらがユーザーインターフェースを設計するときには、この言葉で表される考え方に基づいて作ります。
人間中心設計。
人間が使うものを作るのだから、人間を中心に考えるのは当たり前なのですが、機能実現に注目が集まって作られることの多いシステムでは、技術先行で走ってしまうことが少なくありませんでした。
ウェブにおいても、企業の論理に基づいて広報宣伝やサービスの提供を行ってしまい、顧客の見方から出発することが大切であると広く知られるのに、ずいぶん時間がかかりました。
しかしコンピュータのソフトウェアのデザインにおけるそのような考え方は、実際にはずいぶん昔に登場しています。
ぼくが初めてそうした考え方に、きちんとまとめられた形で出会ったのは、Macintosh用ソフトウェアの開発者に向けて書かれたガイドライン「Apple Human Interface Guidelines」でした。
Macintoshの誕生とともに1987年に公開されたこのガイドラインでは、第1章にまず「設計思想」があります。
コンピュータのプログラマが読む本の最初に「思想」があります。そのことにまず驚いたのですが、その「設計思想」の章の扉を開くと、さらに深い驚きを覚える言葉が書かれていました。設計思想を語る最初の項目が「ユーザ側の視点」なのです。
苦労してコンピュータの技術を学び、様々なアプリケーションごとに異なる多様なコマンドを覚えなければならなかった当時のコンピュータに辟易としていたぼくは、Macintoshに初めて触れた時からその魅力にとりつかれていましたが、その魅力は、ユーザー、つまりぼくらのことを中心に考えるという視点が強力に存在していたからだったのです。そのことをこのガイドラインを通じて改めて知り、ほんとうに深く感動しました。
この感動ととてもよく似ている経験がありました。
まだ小学生だったと思いますが、日本国憲法、特にその前文を初めて読んだ時のことです。国民主権の原理を高らかに宣言し、国家の中心は国民、つまりぼくらであると謳っています。
この憲法を持っている国に自分が生まれ住んでいることに、深い安心感を抱き、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」という締めの言葉に背筋が伸びる高揚感を感じたものでした。
Human Interface Guidelines、日本国憲法、いずれの文章を繰り返し読んでも、その感動は変わることがありません。
多様な人間がいる。その多様な人間こそが主人公である。
人間が使うシステムは、人間主体で考えて作られなければならない。
ユーザーセンタード、ヒューマンセンタードであるということと、主権在民である、民主主義であるということは、ほとんど同じことです。
国はそこに住む人がよりよく生きるためのシステムです。そのシステムがユーザーたる国民や市民センタードであるのは当然です。
憲法は国の設計ガイドラインなので、それを設計し、運用する人間、すなわち国会議員や公務員が守るべきものです。ユーザーを縛るものではありません。システムの設計ガイドラインに「ユーザーはこうしなければならない」といったことが書いてあってはおかしい。ユーザーは基本的に自由であり、権利を持ち、他のユーザーの自由や権利を侵さない限り、尊重されるのが原則です。
憲法はガイドラインですから、実際のシステムがガイドラインに沿っていないからといって、ガイドラインを実際のシステムに合わせることをすべきではありません。それではガイドラインの意味がありません。ガイドラインの規定を守れないのは、まだ実際のシステムが未熟だからであり、規定を現実に合わせて変えてしまったら、そこで進歩は止まります。システムは未熟なまま、よりユーザー中心になる道を閉ざします。だから、現実をいかにしてガイドラインに近づけるかの努力こそをしなければなりません。
まして、ユーザーの自由な利用を制限したり、システムのためにユーザーを犠牲にすることができるような改定は、ユーザー中心主義に反します。
このように思うので、ユーザー中心設計に関わっている人が、自民党の憲法草案に反対をしないことは、ぼくには大変不思議です。
自民党の憲法草案は、ユーザーの自由を制限し、明らかにユーザー中心からシステム中心へと設計思想を変えたガイドラインです。
むろん、ガイドラインをより高みに登らせる改定、ユーザーのコントロールの自由を広げ、よりユーザー中心であるようにする改正ならば積極的にするべきです。
これまでユーザーとして認められていなかったり、ユーザーなのに利用を制限されていたりすることが、ガイドラインの改正によって改められるならば、ぜひとも進めるべきです。現時点では義務とされていることを権利として規定しなおすことで、よりユーザー中心のシステムとする改正もありだと思います。
しかし根本となるユーザー中心の思想を逆転させてシステムセンタードに変え、ユーザーに義務を増やしてユーザーの自由を奪い、ユーザーをしばろうとすることには、ユーザー中心設計に携わるデザイナーとして、そしてなにより日本国システムのユーザーとして反対します。
日本国のガイドライン12条には、ユーザーの自由を守る原則を保持するためには、ユーザーの不断の努力が必要とあります。
どのようなシステムで生きたいのか。
ぼくはぼくが、そして他のすべての人が、できるかぎり自由でいられるシステムで生きたいと思います。
Apple Watch
アップルの製品はどれも、非常にコンセプトがはっきりしている。
多くの他のメーカーの製品でよく感じる「なんでこうなっていないのか」という、半ば罵声をあげる必要が少ないのは、ぼくがアップル信者だからではなく、作られたものの理由がわかるからである。
その理由に納得するかどうか、コンセプトに賛同できるかどうかはまた別の話だが、作られたものが、作り手のしたかったことを明確に物語るので「作った奴が何にも考えていない」という意味での怒りを感じることはほとんどない。
また、作りに妥協をしないので 「大人の都合でこうなったに違いない」といった諦めを抱くこともない。
さて、そこでApple Watchだが、この製品はぼくにとって「欲しくて欲しくてしょうがない」といった性質のものではなかった(以前のエントリーを読んでもらえば分かるでしょうが、iPhoneなどはそういう性質の製品だった)。
だが、この製品でアップルが何をしようとしているのかということ、この製品の利用がユーザーにどんな体験をもたらすのかということ、そのためにどのようなデザインをしているかということ。それを知りたかった。
それがApple Watchを買った一番の理由。
また、年をとったせいなのか、以前は腕時計をするのは嫌でしょうがなかったのが最近はなぜか腕時計をしていたい気分があり、二年ほど前から身につけるようになっていた。
加えて、iPhoneが6になって馬鹿でかくなったために、胸ポケットに入れておくのがしづらくなったことなども別の理由になろうか。
一週間ほど使って感じたことを、記録しておこう。
Apple WatchはiPhoneの「小窓」である
基本コンセプトは、たとえて言えば「iPhoneの小窓」だろう。
iPhone上もしくはiPhoneを通して伝えられる情報をグランス(Grance/チラ見)するもの。
加えて、iPhoneからの情報に必要最小限の即答をする。
それらの機能がついた時計。
したがってiPhoneは必須であり、また入力は原則としてグランスのための選択操作と、最小限の即答のためのものに限られる(デフォルトのアプリでは)ことになる。
ありそうで無い機能
こうしたコンセプトを実現するためのデザインとしては「何が無いか(何を省いているか)」が鍵になる。
キー入力
パスコード入力時のみテンキーが表示されるが、電話をテンキーでかけることはできない。デフォルトでは電卓もない。
むろん数字以外のテキスト入力のためのキーボードもない。
自由文テキストを入れる方法はSiri一択。Siriの聞き取りはほとんど問題ないが、Siriが聞き取ったテキストを編集することはできない。そのまま送るか止めるだけ。
充電中の表示
充電中は常時時計表示をしていてもいいと思うのだが、消えてしまう。
腕時計なので、常にはめて使用しており、充電は寝るときなどにするという利用方法を前提とし、充電中に時計を利用することは想定されていない様子。
むろん充電中でも触れれば表示されるが、パスコードを設定した場合、時計を腕にしていないと必ずパスコードを聞かれるようになる。iPhoneとBluetooth(以下BT)がつながっていればパスコード要求しないという設定があってよさそうだが、無い。
iPadの親機化
営業的にはiPadを親機として利用できるようにしたほうが少しでも数を出せるはずだが、iPadは親機にはなれない。
常に手元にあるであろう、また常にネットに接続可能であろうiPhoneでないと、親機と接続されている状態を通常とするエクスペリエンスを提供できないということだろう。
適切なチューニング
通常、画面表示は消えているが、時間を見ようとして画面を見る動作をすると間違いなく、またタイムラグもほとんどなく、画面がぱっと表示される。
以前Galaxy Gearを使ったときには、3回に一回ぐらいは表示をしてくれずにいらいらしたものだが、そういうことがない。
大きく腕をふって見る動作をしなくても、例えば机の上に腕を載せてキーボードを打っているいる状態で、時刻を見ようと少しだけ手首をひねる動作でも、ちゃんと表示されるのである。
逆に、時計を見ようとしていないのに似たような動作をしたときでも、結果として時計を見る動作(時計表面を見るために静止する)になっていなければ、いったん点灯した画面表示は即座に消灯される。
Apple Watchをどちらの腕につけるか、龍頭を内側外側のどちらにするかを設定で選べるが、例えば右手首の内側につけた場合でも、時計を見る所作で適切にすばやく点灯する。
このチューニングはすごい。
電池
電池の持ちは思っていたよりはだいぶ良い。朝身につけて夜まで充電せずにいても、帰宅時に70%〜80%残っていることが多い。
いまのところ50%を切ったのは、初日にいろいろ試していじったときだけだ。
iPhoneのように始終いじり続けるデバイスではなく、グランスのためのデバイスとしているゆえだろう。
ゲームなどを入れてしまったらあっという間になくなると思われるが、これは時計なのだ。
ただ、接続対象のiPhoneは、より電池を食うようになった印象。これまで自分はBTが必要ないときはコントロールセンターでこまめに切っていたのだが、常時BTで接続しているためだろう。
操作体系
ふたつのボタン
龍頭(デジタルクラウン)が「ホームボタン」を兼ねていて、その下に「サイドボタン」がある。
サイドボタンは長押しで電源になるが、通常押しは「友達」(12件のよく使う連絡先)の呼び出しをするため専用となる。
友達の呼び出し、つまり親しい人とのコンタクト(電話、メッセージ、相手がApple Watch利用者の場合はタップなどの伝達)がかなり優先度の高い機能という位置づけにある。
この呼び出しをすばやく行う必要がなければ、ボタンはホームボタンひとつですませられるだろう。
AppleWatchはアップル製品のなかでもiPod Shuffleに次ぐミニマムな製品なので、省けるものはできる限り省いているはずなので、友達の呼び出しはApple Watchにとって非常に重要な機能とされているわけだ。
「時計」+「iPhoneの小窓」だけでないApple Watchのキラーファンクションとして想定されているのだろうと想像するが、これは相手がApple Watchを使っていないと利用価値がないので、現時点では鶏か卵か状態でなんとも評価できない。個人的には、普及版Apple Watchが出ないと難しいのではという気がする。
ボタンの観点に戻ると、そういうわけで現時点ではふたつのボタンは余計だ。当初、どちらのボタンを押せばよいか迷うことがしばしばだった。マウスのボタンを一つにしたアップルらしくない状態ともいえる。ジョブズが生きていればサイドボタンは無かったかもしれない。
強く押す(Forth Touch)
タッチ、フリックなどはiPhone由来の操作そのままだが、今のiPhoneには(まだ)無い操作が画面を強く押すというものだ。
この操作方法は新しく、現時点で一般にユーザーは学習していないので、教わらないとわからない。
時計の盤面デザインを選択するにはこの操作が必要なのだが、自分もいろいろいじったあげく、結局やりかたを自力で見つけることはできなかった。初期に画面(Apple WatchでもiPhoneでも)で、強制的にその操作方法の存在をガイドしてもよかったのではと思う。
一度学習すれば、オプションを呼び出す方法としてはわかりやすい。
新しいMacBookのトラックパッドが備えた操作でもあるので、今後のアップル製品には、デバイスにあわせた形で導入されていくものだろう。
アプリの選択方法
アプリをユーザーが選択して起動するには、ホーム画面で選択する方法と、グランスと呼ばれる画面群から選ぶ方法と二つある。後者はグランスに対応しているアプリのみ、その画面群に登録することができ、時計画面を上にフリックすると、一ページ一アプリで表示され、横フリックしてアプリ選択できる形だ。
グランスは、アプリとしてすぐに情報を提示することに意味のあるものを並べる場所であり、いわばダッシュボードのような位置づけになる。
時計表示をグランス対象アプリのひとつと位置づけて、時計から左右フリックで他のアプリを表示する形もとれたはずだが、やはりApple Watchは時計なのだ。時計アプリを特別扱いし、他のアプリはレイヤーを変更しないといけないようにしたのだと考えられる。
ホーム画面の、丸いアイコンを蜂の巣のように並べた選択UIは、Apple Watchで初めて採用されたもの。
Apple Watchアプリアイコン形状をiOSの角丸四角形でなく丸形にしたのは時計であることの強調でもあるだろうが、その丸の形状を活かして、縦横のマトリックスでなく蜂の巣状に並べ、フリックで上下左右自由に表示できるようにした。さらに周辺のアイコンは小さく、中央のアイコンは大きく表示することによって、ごくごく小さい画面の中に多くの要素を配置でき、ユーザーが位置を覚えやすく、またすばやく選択できるようになっている。これはなかなか良い。この選択方法は、他のデバイスのUIでも採用するようになるかもしれない。
ミラネーゼループ
SPORTSシリーズでなく、より高いのを(やむを得ず?)購入したのは、ひとつにはこのバンドを体験してみたかったことにある。
これまでの腕時計は、バンドに開いた穴にピンを通して締めるか、バックルの部分が折りたたまれて締める方式がほとんどであった。前者ではピンの位置が決まっているし、後者ではその場その場での長さ調整はできない。またゴムのように伸び縮みするバンドもあるが、バックル折りたたみ式と同様に「今日は少しゆるめに嵌める」といったことはしづらい。
またバックルのあるものは、バックル部分の格好が気になる。特に三つ折り式のバックルは開いたときの状態が美しくない。穴式では、よく使う穴の部分が痛みやすい。
ミラネーゼループは、こうした各方式の欠点をすべて解消しているように思える。バックルを持たず、その時々で自在にかつ微妙に長さを変えることができる。金属なので革製のように痛みが目立つこともない。
使ってみると実際にぴたりと腕にはまってくれるので気持ちがよい。今日は暑いからちょっとだけ緩めてつける、ということも簡単にできる。
ただ、まだ慣れないため、腕にはめるという所作がスムーズにできないことがある。
磁石がやや強力なため、外して置いておいたときにくっついているのをはがして腕にはめるのを、もう一方の片手でするのに苦労することがある。ささっとできるやり方を見つけないと。
「嗜好品」
Apple Watchは、iPhoneやiPadとは違って、「あるととても便利なもの」とまでは言えない。
必要な道具というよりは、嗜好品。
だからアップルが装飾品としてApple Watchを位置づけているのはとても納得がいく。
Macを初めて見たとき、これからのコンピュータはみんなこうなっていくに違いない、と思ったし、iPhoneを初めて見たときも、これでケータイの世界が変わる、と思った。
Apple Watchにはそれほどのインパクトはない。イノベーションが起きたわけではない。
それゆえに、今後これがどう普及するか、影響するかは、まだよくわからない。
他社の動向としては、Samsungやソニーというより、むしろ時計メーカーや宝飾ブランドがどう対応してくるか(しないか)はちょっと気になる。
細やかなアップルデザイン:あえて変化しないポインタ
Mac OS Xでのウインドウ四隅でのマウスポインタの変化。
ウインドウの隅では通常、マウスポインタは斜めにウインドウを拡大縮小できることを示す形状に変化する。
例えば、ウインドウ左上端では斜め両端矢印にポインタが変化する。
しかし、フルスクリーンにできるウインドウの場合、右上の角でのみポインタが変化しない。
フルスクリーンにできるウインドウの右上端には「フルスクリーン化ボタン」のアイコンがある。
このアイコンと、ウインドウ拡大可を示すポインタの形が似ているので、「このポインタ形状の状態でクリックするとウインドウがフルスクリーンになる」という誤解を生む可能性がある。
そのようなアイコン形状のコンフリクトを避けるためだろう。
ただし、この状態でもウインドウの大きさを斜め方向に変えることはできる。
操作可能であることの明示よりも、誤解を生むのを避けることを優先。
本来であれば「できるんだなと事前に確認できて、やってみてできる」のがベストだが、「できないのだろうと思ってやらなかった」というマイナスよりも、「できるのかなと思ってやってみたらできなかった」というマイナスのほうが大きい、という判断をデザイナーがしたということ。
一方、フルスクリーン化できないウインドウの場合は、ウインドウ右上端にフルスクリーン化アイコンが存在せず、したがってアイコンのコンフリクトがないので、ポインタはちゃんと変化する。
当然この状態でウインドウの大きさを変えられる。
こういうことをちゃんと考えて、一手間かけている(フルスクリーン化できるウインドウの右上隅だけ変化しない、という例外処理をわざわざ入れている)ところが、アップルのデザインの細やかさ。
おまけ
このインタラクションはアップル製だけでなく、他社のソフトウェアでも同じ。
Word, PowerPoint, Excelでも同様。よしよし。
しかし、
最新のOneNote for Macはなんと……
コンフリクト。
MS、だめじゃん。
何も考えないとこうなります、という悪い見本、でした。
映画『スティーブ・ジョブズ』
ぼくにとっては、この映画にでてきたエピソードのほとんどは知っていることだったけれど、何も知らない人が映画を見たら、ジョブズという人間にどういう感想を抱くのだろうか。彼の実際の魅力や、なぜアップルに返り咲けたのかというところはいまひとつ伝わらないんじゃないかなあという気がしないでもないのだけれど。
ぼくがMacの雑誌を作っていたのは、ちょうどジョブズがアップルにいない期間で、Macintoshの筐体のデザインがどんどん劣化していくのを絶望的な気持ちで眺めていたのだが、とはいえジョブズがいてくれれば……ともあまり思ってはいなかった。あの頃のジョブズは、「デザインの好きな毀誉褒貶の激しいビジネスマン」といった印象でしかなく、「ふたりのスティーブ」として並べたらもちろんウォズのほうが大好きだった。
返り咲いてから作った初代iMacのデザインはなるほどと思わせるものだったが、ぼくの好みではなかった。
ジョブズへの見方が変わってきたのは、たぶんiPodあたりからだろう。iTunesストアの実現、そしてiPhoneが決定的だった。
あれから彼はぼくのヒーローになった。……ぼくのヒーローになっていたのだ、と気づいたのは、彼の死を知ったそのときだったけれども。
今から思えば、Apple IIもMacintoshも、ぼくがドキドキしていたデザインの中に刻みこまれていた強い思いの多くはジョブズのものだったのだが、技術や、時代や、経営や、彼自身の問題から、それがまっすぐに世の中に提出されていなかったのだろう。
だから映画の中で、若きジョナサン・アイブ(役者の顔はそっくりというわけではなかったが、口調・発音は実にそっくりだ)がジョブズに、「あなたの考えを実現したくてここにいるんです」と言い、iMacのデザインについて熱く語るシーンには、目頭が熱くなった。
でももっと、彼とアップルのチームによるデザインの実現の過程を、ドラマとして観たかった。カリグラフィへの興味とフォントへのこだわりが結びついて描かれてなかったし(そのこだわりも、結果の成功のシーンがないので、なんだか部下をいじめる上司を描くためのネタになってしまっていた)、何よりPARCのエピソードがそっくり無いというのは残念すぎる。ビル・アトキンソンと、アンディ・ハーツフェルドのウィザードぶりも見せてほしかった。ジョブズがアトキンソンを外に連れ出して角丸四角形の重要さを説得するシーンも見たかった。それに、ただのダメなおじさんにしか描かれてないジェフ・ラスキンが悲しかった。
まあこんなふうに「ジョブズの何が描かれるのか」「どの時代のどんなことがどのように扱われるのか」ということにどうしても意識がいって観てしまっていたので、映画としてどうなのかという評価については、することができないでいる。
しかし、映画の1時間半で描かれるには短すぎる人生であったことはたしかだ。1年間の大河ドラマに十分なりうるだけの濃い人生。
あらためて、そんな人生をもった人と同時代を生き、その人のすることをリアルタイムに見、その結果を手にしてこられたのは幸せだったな、と思った。
もう2年がたつのか。
iOS版を考慮して、Mac版Keynoteでスライド作成する際の留意点
iOSのKeynoteでプレゼンする可能性がある場合、Mac OS版Keynoteで作成する際には、あらかじめ下記の点に留意しておくと後の修正の手間があまりなくなります。
- スライドのサイズ:1024px × 768px で作成する
- トランジション:対応しているトランジションのみを使う。アクションビルドは使わない
(別エントリー「Keynote:Mac版とiOS版の互換性」参照) - フォント:iOSが搭載しているフォントのみを使う
(アップルのサポートサイト内「iWork for iOS:互換性のあるフォント」参照)
Mac OSでプレゼンするつもりでも、バックアップとしてiPhoneやiPadがあれば心強いので、Mac OS版でなければできないようなもの(アクションビルドを使うなど)以外は、できるだけこれに従っておくと安心です。
もし上記の条件にあわない場合は、iOS版Keynote読み込み時に下記の処理がなされます。
スライドのサイズ
- 1024px × 768px以外でつくられたスライドのサイズは、1024px × 768pxに変更される
オブジェクトやテキストの位置とサイズは、スライドのサイズにあわせて再配置・リサイズされるので、多少の大きさの変更であれば変なことにはなりませんが、図が重なったりすることはありえます。
トランジション
- 対応していないトランジションはディゾルブとして読み込まれる
- アクションビルドは削除される
フォント
- iOSが搭載していないフォントは、搭載されているフォントに変換される
・ヒラギノ角ゴ Pro W3/W6
・ヒラギノ丸ゴシック Pro W3/W6
→ヒラギノ角ゴProN W3/W6
・ヒラギノ角ゴ Std
・ヒラギノ角ゴ StdN
→ヒラギノ角ゴProN W6
・ヒラギノ明朝Pro
・MS明朝
・MS P明朝
→ヒラギノ明朝ProN
しかしなぜか……
・MSゴシック
・MS Pゴシック
→黒体-繁 (ST Heiti TC-Medium)
となります。これは間違い?
- 上記以外のフォントはHelveticaに強制的に変換される
明朝体、セリフ体であってもすべてHelveticaです。
Osakaやメイリオはヒラギノ角ゴシックProNにしてくれてよさそうなものですが、容赦なくHelveticaです。
(ただし日本語フォント指定であったものがHelveticaになっても日本語部分が化けることはありません)