ねじ式文明
「ビス」という言葉をあるところで眼にして、ぼくの中にあるビスのイメージがおぼろげなのに気がついた。
ビスって何だっけ? ビスという言葉を自分で発声することはほとんどなく、同様のものは「ネジ」か「ボルト」と言っているなあ。ボルトはレンチで回すヤツ……ビスは……あれ?
こういう用語は日本のWikipediaではあまり載っていないかも……と思いながらひいたら、「ネジ」の項にくわしく載っていました。すばらしい。
そしてそこに記載されていたネジの歴史、実に興味ひかれるものでした。
そうか、江戸とはネジのない文化だったんだ。村松貞次郎先生の『無ねじ文化史』を引用していたので検索したらCiNiiからPDFで論文ダウンロードできました。
ネジは「中国で独自に生み出されなかった、唯一の重要な機械装置」だそう。
なるほど、ネジは旋盤がないと簡単には作れないのだな。「旋盤で物を作るのはヨーロッパ貴族の趣味の一つだった」んだって。
おもしろいねえ。旋盤で何作ってたんかな。『Make』が好きなような、そんな貴族がいたってことだ。
一方日本では、幕末、鉄砲が伝来してから300年以上たっているのにまだ刀で闘おうとしていたヒトがいたのはなんでだろう、というのが前から思っている疑問なんですが、それに対する大きなひとつのヒントでもありました。ネジを日本では容易に作れなかったのだ。鉄砲はネジがなければ作れないのだ。
グーテンベルクの印刷機もネジで版面に圧力をかける。あれはブドウ絞り機からの発想だけれど、日本での印刷は、ずっと手で刷っていたのもこれに関係があるのだろう。
あまりにも身近すぎてそのすごさに気づいていなかったけれど、たしかに、ネジというものを思いつくことと、それを道具として作ること、ネジを作るための道具を作ること、これらのハードルの高さは並じゃない。
人間には脳があるから、コンピューターのようなものを思いつくことはたやすい。空を飛ぶ生きものはたくさんいるから、飛行機もまた、かなり思いつきやすい。
でもネジはそもそも自然界に存在しないから、なかなか思いつくことができそうもない。そういう点では車輪と同様かそれ以上だ。しかも車輪は思いつきさえすればわりと簡単に作れるけど、ネジを作るのは相当たいへんだ。
中国が、そしてその文化圏の中にいた日本がそうであったように、ネジが発明されない文明というのは充分ありえたわけで、この地球上にネジが存在することって、そう考えるとものすごくすごいことだ。