滅びるにはこの日本、あまりに……
ぼくには自信がない。
自分の中にできる限りの知識を持ち、人の意見に左右されずに判断ができることを望み、そうなれることをずっとめざしてきている。でもそんなことはできないことも知っている。だからこそ望むのだけれど。
大勢(にみえる)の意見を見聞きしたり、限られた情報しか与えられないことで、自分の判断はカンタンに揺らぐ。何が正しいことで、何が正しくないことなのか。立ち止まって考えなければならないことにすら気づかずに、判断しているつもりで実は何にも考えないうちに、だれかが、あるいはみんなが(「みんな」というのも実は全員ではなく一部の人なのだけれど)言っていたことがあたかも自分自身のはじめからの意見であるかのごとく、思ってしまう。
そんなことはよくある。たいしたことでなければそれでもいいが、たいしたことであればあるほど、知らぬうちに動かされていたりする。
それでも、そうなることは、しかたがない。確固たる自信のある自分など作りようがない。
それよりも、自分は動かされていた、間違っていたと気づいたとき、それをまっすぐに見つめる力と、その後の行動こそが問題なんだ。こう書いていても胃がキリキリしてくるほど、自分にあるその「問題」についての問題が過去の経験から顔を出してくる。
間違っていた自分に立ち向かう勇気。
こまつ座、井上ひさし脚本の『太鼓たたいて笛ふいて』では、そうした精神を持ち合わせていた林芙美子という女性を、かわいらしくも、勇ましく、大竹しのぶが演じていました。
彼女は、日本の残虐性に気づいたとき、絶望しながらもこう言います。
「滅びるにはこの日本、あまりにすばらしすぎる」
この芝居には各所で泣かされたけれど、一番泣けたのはここ。
今の日本も、一度滅びるしかないのではないか、滅びたほうがよいのではないかと思っているのですが、なので70年近くたった今に至ってもやっぱりほんとうにそうだ、と思った……からではなく、かつては滅びるのが惜しいほどにすばらしい国だったのだ、ということに泣けたのです。
全国津々浦々、浜が埋め立てられテトラボットがどこにも置かれ、川が端から端まで三面がコンクリートで覆われ、山林は手入れされることなく荒れ、田は放置され、あらゆる場所に看板が立てられ、この国一番の山でさえゴミで埋まっている、かつては美しかった日本。
やはり芝居の中にあった「貧しくとも豊かな生活」といった価値観は、希望とともに失われて、人びとが疲弊してゆくばかりにみえるこの国。
もはやとうてい、すばらしくなく、ましてや「すばらしすぎる」ことなど決してなくなってしまったこの国。
明治の初めに日本を訪れた外国人が残しているさまざまな文章には、自然の美しさと豊かさ、ほんとうに貧しいながらもやさしさと礼儀を持つ人びと、そのつつましやかな生活への賛美が多く残されています。
ぼくらの世代が、そうしたかつての日本の残滓を感じることのできた最後かもしれない。
そう考えると芝居の中のもうひとつの科白、
「書かなくては。休んでる暇はないんだわ」
を胸に刻まなくてはならない、のですね。泣いてる暇はない、のですね。
いつもありがとうございます。
残念ながら今回は観にいけないので(涙)、ご感想が伺えて嬉しいです。
おお、またまた直々に。
こちらこそ本当にいつも、すばらしい情報をありがとうございます。
メルマガのおかげで、人生がとても豊かなものになっていると感じています。
読み返してみると劇そのものの感想になっておりませんでしたが、しのぶさんが書かれていたとおり、この芝居を目の前で見ることのできるしあわせを強く感じました。
同時に、この芝居の伝えるものの重さもまた。