新聞紙というユウウツ
今の新聞が嫌いな理由はたくさんあります。
ひとつはゴミ。
読んだあとの新聞はゴミになります。何かを包むとか、ときどき役に立ちますが、まあ大半は捨てることになります。
その量が半端でないですよね。毎月、重ねて40cmぐらいの束になる。
家電やコンピューターは製造者が責任をもって回収をするということが義務化されてるんだから、新聞紙もそうしたらいいと思ったり。
うちは牛乳の宅配も頼んでいます。スーパーで買うより高めだけれど、紙パックというゴミが出ず、ビンがリユースされるところも、気に入っている理由のひとつ。届けにきた人が、回収もしてくれる。
とはいえ、今、カツカツでやっている販売店にそれをやってくれというのは酷です。実際にやるのは販売店になるでしょうが、新聞社が自ら負担をして、そのようなしくみをつくるべきです。
もうほんとにユウウツなんだよね、回収に出すために新聞紙をまとめる作業って。普通のゴミをだす作業もめんどくさいけれど、新聞紙をまとめる作業をやっているときほどユウウツにはならない。
たぶん、作業そのものではなく、この時代にあって、完全にフローな情報が物理的な形で届けられることに苛だつのだと思います。
まあそう考えると、回収のしくみとか作るより、やっぱり紙で宅配するというしくみそのものを変える、というかやめる、ということでいいんじゃないでしょうかね。紙でほしいという人もそりゃいるでしょうが、あと10年もたてば、そういう人のほうがずっと少数派になるんでは。まったくなくす必要はないが、今のようにほとんどが紙で宅配ってのは、もうないでしょう。
道具としての新聞紙は、百円ショップで同じ大きさの新聞用紙を一束100枚100円とか、そんなんで売ってくれればいいです。
実家を出てから20年以上経ちますが、新聞をとったことがありません(無理矢理おためしをさせられたことを除く)。最近唯一困ることといえば、幼稚園で新聞紙の寄付を求められる、ということでしょうか。世の中ではまだまだ「新聞紙は必ず家庭にある」前提なのだな、と感じます。紙媒体の新聞の流通うんぬんが改善される前に新聞社がなくなってしまいそうですね…
うちも家族がとっているのですが、一人暮らしのときはずっととっていませんでした。
自分ちのことを考えると、新聞紙なんていくらでも寄付したい感じなので、そういう家からたくさん寄付してもらえばいいだけ……と思うんですが、きっと「みんな」もってくることが前提になってたりするんでしょうねえ。この社会にありがちではある、平等のはき違え。
実家を出てから20年以上経ちますが、新聞をとったことがありません(無理矢理おためしをさせられたことを除く)。最近唯一困ることといえば、幼稚園で新聞紙の寄付を求められる、ということでしょうか。世の中ではまだまだ「新聞紙は必ず家庭にある」前提なのだな、と感じます。紙媒体の新聞の流通うんぬんが改善される前に新聞社がなくなってしまいそうですね…
実家を出てから20年以上経ちますが、新聞をとったことがありません(無理矢理おためしをさせられたことを除く)。最近唯一困ることといえば、幼稚園で新聞紙の寄付を求められる、ということでしょうか。世の中ではまだまだ「新聞紙は必ず家庭にある」前提なのだな、と感じます。紙媒体の新聞の流通うんぬんが改善される前に新聞社がなくなってしまいそうですね…
うちも家族がとっているのですが、一人暮らしのときはずっととっていませんでした。
自分ちのことを考えると、新聞紙なんていくらでも寄付したい感じなので、そういう家からたくさん寄付してもらえばいいだけ……と思うんですが、きっと「みんな」もってくることが前提になってたりするんでしょうねえ。この社会にありがちではある、平等のはき違え。
うちも家族がとっているのですが、一人暮らしのときはずっととっていませんでした。
自分ちのことを考えると、新聞紙なんていくらでも寄付したい感じなので、そういう家からたくさん寄付してもらえばいいだけ……と思うんですが、きっと「みんな」もってくることが前提になってたりするんでしょうねえ。この社会にありがちではある、平等のはき違え。
うちも家族がとっているのですが、一人暮らしのときはずっととっていませんでした。
自分ちのことを考えると、新聞紙なんていくらでも寄付したい感じなので、そういう家からたくさん寄付してもらえばいいだけ……と思うんですが、きっと「みんな」もってくることが前提になってたりするんでしょうねえ。この社会にありがちではある、平等のはき違え。