失われてしまうということ
連休後半、東北を旅した。
行きたい、行かなければと思いながら、ためらいを感じて行かないまま2年がすぎてしまったのだが、ちょうど所用ができてこれを好機と、駆け足で沿岸をまわった。
そこで何が起きたのか。そこにいた人たちが何を感じたのか。想像しなければいけない、できる限り想像しなければ……と思っていたし、今もそう思う。
けれど、現場に身をおいてその風景を見回し、いくら想像をたくましくしても、そのときの光景を脳内で構成することはほとんど不可能だった。
見渡す限り何もないここが、かつてたくさんの家々が身を寄せ合うように立ち並んでいた街であったことも、一瞬にしてどす黒い巨大な波がそれらを飲み込んだことも、波が引いたあとに家やビルや車や、その中におさめられていたはずのたくさんの家具や道具が、膨大な残骸の集積となって無惨に積み重なっていたことも、そしてその中で多くの人の命が消えていったことも、目の前にある風景から想像するのは難しい。
「想像を絶する」。この言葉しか浮かばない。
それでも、想像しなければならない。
想像の及ばないところは、伝えてくれる映像や写真や文章や、そこにいた人たちの声に学ばなければならない。
三陸の海岸沿いに北上していくと、次々と現れる浦のひとつひとつで、何もないただのだだっ広い平地に出くわすことになる。
よくみればコンクリートの土台だけがあちこちに残っていて、ここが2年ちょっと前までは家々の立ち並ぶ集落であったことがわかる。
いくつも、いくつも、そんな浦が続く。
海沿いの道の小高い場所をすぎると、小さな港を抱えるようにしてこじんまりとした集落が見えてくる……日本のあちこちにある美しいそんな風景が、もうここにはない。
その喪失の風景の連続は、初めて訪れる自分でさえ、相当に気が滅入るものだった。
そこに住んでいた人々、そこをふるさととしている人々の思いは、いかばかりのものだろうか。
自分の家が無くなるだけでなく、ふるさとが丸ごと無くなってしまうこと。
自分のいのちや、家族のいのちが失われてしまうという数えきれない悲劇が起きてしまっている。
そのうえ、自分の過去や祖先の過去が込められたもの——うけつがれてきた生活の道具も、写真や位牌といった思い出の品も、家族でともに長いときを過ごした暖かな家、部屋という空間も、無くしてしまうということ。
同じ土地で生きてきた人たちと共有していた空間——声をかけあったり、笑い合ったりした場所、友だちといっしょに通った学校、家族でいつも買い物をしたお店、仲間と飲みにいったお店、好きな人と歩いた松林……。
そして、それらが全部つまった風景をすべてまるごと失うということ。
それはどれほどの思いだろうか。
ひとは思い出を胸の中にだけ抱いているのでなく、様々なモノや風景に思い出をしまっておく。
大切な思い出がしまわれたモノや風景は、その人にとってほかのものには換えることのできない唯一の宝だ。
宿り先を失った思いは、いま、ほんとうに心細いばかりなのではないだろうか。